成長に必要な過剰さ

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過剰であることが第一条件

何かを上達させたいとか
何か成し遂げたい というときに
過剰である、というのは第一条件だと思う。という話。

成長したい、という気持ちがあるのに何か成長できない時や、
なかなか進歩しない、というときに
いろいろな方法を本で読んだり、
刺激を外部に求めて人に話を聞いたりすることは有効だとは思う。

でも、最も有効なのは
他の人が「過剰だ」と思うほど、量をこなしたり時間を使うこと。
言い換えれば、何かを失うこと。

過剰とは何かを失っている状態

一般的にはバランスを崩した状態を、やりすぎ状態 = 過剰 と判断されると思うが、その状態に至らないと、人は一皮むけないと思う。

「変わる」ことを目指しているのであれば、
やはり何かを捨てねばならない。それは睡眠だったり、時間だったり、友人と過ごす時間であったり、お金であったり。

バランス良く楽しいだけでは成長できない

捨てたことで一般的には「バランスをくずした」「過剰な」状態だと思うが、その状態に入れた、ということ、
自分をその状態に持っていけた、というところで
その時点で一種の諦めのような、
対象に対する、畏敬の念のようなものが芽生えていると思う。
「バランスいい」状態というものは、対象に対する甘えのようなものがあるのだと思う。

自分の何かを明らかに捧げた状態というのは、
対象により真摯に向き合う腰の座った心理状態にしてくれると思う。
これはバランスを崩してでも 得るべきものだ、という畏敬の念。
そういう気持ちは「覚悟」に似た心理状態だと思う。

エスカレートさせていくことで常人ではなくなる

螺旋階段を登るように

過剰な状態が続いた時、
自分でも気づかずにその傾向を強めていってしまったり、
自分の中で気持ちよく、対象に対する探求をするあまり、
周りが見えなくなっていくことがある。

この螺旋階段のような、自分の中に潜っていくような状態は
過剰さを少しずつエスカレートさせていく。

エスカレートしていくことは、一般的にはやめておいたほうがいいこと、になると思う。
外で見ている人からしたら、「どうしたの?」とか「なにがしたいの?」という意味不明さが漂い始める。

ただ、「一般の人」の意味不明さには、突き抜けようとバランスをくずしてもがいている人を妬む気持ちも含まれいることを忘れてはならないと思う。
「意味がわからない」人になっていくのは周りからしたら、もしかしたら損なことなのかもしれない。
物事に打ち込んで周りが見えなくなりつつある(周りのことを気にしなくなりつつある)人物は、一般的な人が得れない能力を開花させて、一般の人を置いていく可能性もあるから。
本能的に、「私は疑問を感じる」ということを伝えて、足を引っ張ろうとしているのかもしれない。

本質に迫っていくことで人間的な成長につながる

成長するにはこの「過剰に」「エスカレートしていく」ことは避けては通れないし、これを通ることで、楽しくなっていく。
対象が、自分自身のミッションだ、と心の底から思うようになっていく。

こう書いていると エスカレートして、危ない人物になっていくようなイメージを持つかもしれないが、そうではない。
自分が対象と真剣に向き合うことで、一つの物事の本質に向かって、自分なりに探求していくことは、人間的に成長することだと思っている。
バランスの取れたやり方では得ることができなかった本質とか深堀りとか、根源的な対象に対する楽しみに気づき、一般の人達が欲しくても手に入れることができない、本当の果実、を手に入れることができると思う。

他人のどうでもいい小さいプライベートな事を気にせず
自分のミッションに自ら好んでバランスを崩しながら
もがきながら、楽しみながら向かっていけるような人が増えれば
世の中もっと面白くなると思う。